映画と本と、珈琲と。

主に映画と本についてのブログです。

📖共喰い/田中慎弥(著)

随分と遅れてからの田中慎弥氏の『共喰い』を読む。

八月にようやくあの街を出て都内に引っ越したのだがそれまでの近隣は山・山・山。街に続く道は一本しかなく、当然の事ながらスーパーも商店の数も限られて書店の類は隣町まで出向かねばならぬし、そのくせに電車は単線、二時間に一本走ればよい方で。

 

図書館にはお世話になっていたとは言え、それもとても狭い範囲での選択しか許されず数々出版される本の並んだ本棚をゆっくり眺める事もなく…そんな八年間とやっと縁切りが出来た。田舎、と呼べるほど一般の人が考える田舎、とは桁違い。そもそもそんなところに家があるの?人が住めるの?な、田舎と呼ぶより"自然を借りて勝手に暮らす生物"と位置付けた方が早い、そのような場所だった。

 

その為に、この場所からそこに越すまでの暮らしとは180度の向きで変化してしまい、それまでが普通だと感じていた事は一切普通ではなくなった。色々を時間の中に落としてしまったように思う。本だって、映画だってそうだ。忙しい中をどう頑張ってみてもそれには限界があった。本当に欲しいものだけを選択し、ネットで検索をかける日々。関連書籍はすすめられても"たまたま目に付いたから"等という寄り道はなかなか出来ない、それがネットという世界。現実の、眺めていたら視界に入ったから興味を持つ、そのような事がない残念な暮らしだった。無駄がないと言えばそうだろうが、その暮らしには赦しがない。嫁いだ時に近所の方が仰った『近くには病院もあるし、ちょっと走ればスーパーもあるしわりかし住みやすいで』なんて言葉に、意味があったのだろうか。

 

現在の暮らしの近隣には少し歩けば書店も古本屋もある。目と鼻の先にはコーヒーショップも溢れ、時間が許せば傍の書店で書籍を選んで購入、そのままコーヒーショップで時間を潰す、あぁなんという幸せ。こんな普通の事を幸せだと呼ぶ事にこの街から離れ元に戻るまで約十年近くもかかってしまった。

 

書店の本棚の前に立ったら帯に芥川賞受賞作、とある。ああ…この話って菅田将暉主演で映画化されてなかったっけ、そう思いながら手にとってその足でコーヒーショップへ。それが世間一般の普通の時間を取り戻す、私の旅。そんなわけで少し遅れてのレビューです。

 

共喰い (集英社文庫)

一つ年上の幼馴染、千種と付き合う十七歳の遠馬は、父と父の女の琴子と暮らしていた。セックスのときに琴子を殴る父と自分は違うと自らに言い聞かせる遠馬だったが、やがて内から沸きあがる衝動に戸惑いつつも、次第にそれを抑えきれなくなって―。川辺の田舎町を舞台に起こる、逃げ場のない血と性の物語。大きな話題を呼んだ第146回芥川賞受賞作。文庫化にあたり瀬戸内寂聴氏との対談を収録。 

あぁ…なんという内容なのだろう。救いがないww

 

これだけの性描写が並べば嫌悪感さえ起こりそうなのに、それはとても"どうしようもなく本能の"に位置づけられ目が離せなくなってしまった。例えば同じ性描写でも官能小説などは二ページも読めばお腹いっぱい、その本にとどまる事が出来ない。私には出来ない。そんな事よりも私は性描写が描けない。リアルに描くとなると客観性が足りず、官能小説にあるようなファンタジー要素を感じた事がない、とでも言えばよいのか。性描写のある物はそれこそ食べ物の好き嫌いに似て、御意!と、あーなんとなくわかる、と、全くわからないから入り込めない、に分かれる部分があると思うのだがどうか?

 

私はどちらかというと自分で性描写を描くとなると田中さん的になりやすいであろうと思う。ただただ、その状態をお伝えする、そこに在る、というだけの。内容的にはえげつないのですが…でもこの作品が賞をとる、それは非常にわかる。てか、あげてwあげようよ、そんな気にさえなる。不思議と瑞々しい感覚だし。私どの目線でいま、物言ってる?ってなるけど、これは賞あげてwと思った。

 

きっと私は皆さんとは違う目線でこの物語を読み終えたと思う。自然というのは素晴らしい。素晴らしい代わりに、時が動いているようで、何も変わらないのだ。この話では田舎という場所の情景描写が9割を占めると思う。川の流れ方から、時間の潰し方、暮らしている人たち、いつもの顔ぶれ、停まっている鳥のその形や様子まで。これらを眺める時間がそこにはあり、しかしそれらを眺める時間しかないのだ。何もない。何もないくせに…その感情がとてもよく描かれている。

 

すごい!すごい作品だ!と思われがちだが、実は田舎にはあのような話はごまんと溢れかえっている。日本の闇の宝庫the田舎。もがく若者達とその苦悩。娯楽が欠けている、それはもう毎度口を酸っぱくして言うように、楽しみや出来る事が、人いじりかセックスに耽る、その程度しかないんである。或いは残酷に意味もなく虫を殺したり。それで神にでもなったような気分になる子とこれはよくない事だと時間をかけて理解していく子に分かれる部分が多い。近代化理論ってすごくね??人が人になってくんだよすげぇよな…そんな風にさえ感じる。自然しかないと人間は動物化したままで生物界のトップを走る事になってしまう。本能しかない輩が中途半端に知恵を手にした時、のような状態にある人間が非常に多い、それが田舎だ。(それに伴って事なかれ主義の隠ぺい体質という部分もあるので事が大きくならず、街や村の力ある大地主などによりそれらはなかった事となる)

 

その陰鬱さ。それらに対峙する感情やそれでも変化のない街の様子が非常によく描かれており、途中から、ダメだそんなところにいてはいけない、家を出なさい!と遠馬くんという主人公を励ましながらページ上の指を送る。田舎は多感期に対して残酷すぎる。過酷すぎる。大人になっても無理だ。無理だった。そこには様々なごまかしの気持ちが横たわり、こんなの嫌だよ、と騒いでみても現実は何も変わらないのだ、とわかった時に、騒ぎ立てる気持ちさえゆっくりフェイドアウトして行くような落胆や諦めとはまた違う「心の死」のようなものがある。そしてそれがその者の普通となっていく時、の苦さを握ったまま、語りかけてくる。私は腐っても母であるために『畜生、傍にいたら抱きしめてやるのにな…』とさえ思ってしまった。あまりに、過酷で。

 

私が一番この話を好んだ部分は情景描写の緻密さもさることながら、時間を流れとして捉えていないところだ。その場、瞬間、目をとらえた物、それらが束となり時間という物を作り上げている。それぞれのその時間に自身を落とし込み、ああではないか、こうではないか、こう見えている物も実際にはこうではなかろうか、等の問いかけがあの手法によって行間で語れる、という部分。最終的に若き命は自分の無力さを知る。人が無力を感じる時と絶望はイコールです。それ以上の絶望を私は、知らない。何が出来るか、何も出来ない、出来なかった、そこに突き付けられる痛みを絶望と呼ぶのだ、とある出来事から知りました。

 

主観と客観が一人の中に起こり、自分の感ずる道徳観念に負けそうになる時の、でもそうでしか状況が許さない、そこに置かれた時のどうしようもない気持ちが仁子さんが橋を渡るか渡らぬか、そこに投影されている気がした。

 

内容的には救いがなくえげつないので性描写かぁ…つれぇ…と思う人には厳しいかもしれないが、それはそのようにしてそこに在るものだった、と読めばきっと大丈夫wあぁ、これは賞あげよ…あげてwそんな風に思う作品でした。映画の方はエンディングが違うのか予告で、原作とは違うもうひとつの…となっていたのでそれはそれで楽しみ。だいぶ陰鬱だろうけど。でも私、きっと直視できる。なぜって、田舎とは、さよならしたから☺♡