映画と本と、珈琲と。

主に映画と本についてのブログです。

📖コロナの時代の僕ら/パオロ·ジョルダーノ(著)

こんばんは。こちらのブログが全く更新できておりません!

書かねば書かねばと思っている内にどんどん日が経ち、世の中がひどい有様です。

 

東京も一時的に感染者数が下がったものの、自粛解除後、また盛り返して来ている状態に、経済も人命もなかなかの打撃を食らっておりますが…。

 

そんな今、読むべき本を読んだのでご紹介しておきます。

 

コロナの時代の僕ら | パオロ・ジョルダーノ, Paolo Giordano, 飯田亮介 |本 | 通販 | Amazon

f:id:tsubame71:20200719235112j:plain

コロナの時代の僕ら

感染症とは僕らのさまざまな関係を侵す病だ。この災いに立ち向かうために、僕らは何をするべきだったのだろう。何をしてはいけなかったのだろう。そしてこれから、何をしたらよいのだろう。コロナの時代を生きる人々へイタリアを代表する小説家が贈る、痛切で、誠実なエッセイ集。

 

これをお書きになったパオロさんですが、トリノ大学大学院博士課程修了なさった方で、ご専攻は素粒子物理学との事。お父様はお医者様です。今年2020年、二月末から三月にかけて書き下ろされたもので、ご自身がお得意とする分野でもある"数学"からのアプローチでエッセイが構成されていますが非常にわかりやすい。

 

新型コロナについては勿論ですが、それを受け止めるべき生きる人間の心の在り方、という物がとてもスマートに描かれ、文体も瑞々しく、短いエッセイ集ながら、内容の濃い芸術的学術書のような感覚さえありました。沢山の方の目に留まると良いな、と思う一冊です。

 

日本はこんなにも感染者数が増えていく一方で、経済的な打撃もこれ以上は補填できない、と国が考えたのか、この最中にGO TOキャンペーンなる物を打ち出し、国民からは避難の嵐だったところです。私も商売人なので理解できなくもない。理解できなくもないですが、かといって、では、と皆がどこかのお宿に押しかけて、クラスター化してしまったら、どこが責任をとるのか。風評程度では済みませんし、長く長く言われてしまうでしょう。出ていけ、と街を追われる騒ぎになるかもしれない。創業何年、が、軽く吹っ飛ぶような話です。

 

一方、私がその時、一番に感銘をうけたのが、この本の中の一節でした。

著者には次に控えていたパーティの予定があったらしく、出るか出まいか相当悩み、そんな折、以前訪れた貧困を極めた場所の事を思い出したそう。自分がそのパーティーに出て感染した場合、その、医療体制も何も整っていない場所の人たちを窮地に陥れてしまうかもしれない、だから僕はパーティをやめた、といった内容の箇所。

 

こんな事は誰にとっても初めてで、目の前の事にしか目が向かなくて当然かもしれません。しかし、どの程度で感染が蔓延するか、を考えられる人は【自分圏内から少しだけ向こう側】の事も視野に入れて動けるのです。バタフライエフェクトのような話ですが、実際に感染症ではそれも起こり得るのが現実で、自分はよくても遠い場所の誰かの命を追いやる事も出来てしまう。

 

日本は島国で、直接にどことも接していないからそんな事は起こらない、とも言いきれない。もっと狭い範囲に絞ると、近場であれば、自分が感染して平気だったとしても、自分の祖父母やお隣の…といった具合ですね。著者の語る、その実際に目で見たショックを受ける程の貧困さの中でも生きて、暮らしている人がいた、自分たちはもっと恵まれた場所で生活し、それらの事を蔑ろにしてはいないだろうか、と広域で、結局は自分たちが自分たちの首を絞めている、と語っています。

 

感染、また感染、と繰り返す内にウイルスの耐性も上がります。もしかすると、郵便物等に付着して…が、いつ起きても不思議ではない。今は移す事も、移る事もご法度で。誰の命も追いやる事のないように心がけたいものです。

 

本書では、誰がどのようにしてどう移し蔓延したか、という事よりも、起きてしまった事態に対し、僕らはどのように対処し生きていくべきだろう、をわかりやすく書き起こしてあります。

 

私も考えました。

 

私はもし死亡した場合、墓もいらないというタイプなのですが、もし役立てて頂けるなら…と、この事態をきちんと綴っておこうと思っています。長い先で、また、同じような感染症が蔓延するかもしれない。そうなると、私の子供たちから派生した命はきっと

「昔にもこんな事があったらしいね」となる。そうなった時、昔はこうだったらしいよ、となっても、その時、近しい人間がどこで暮らし、どんな風に日々を眺め、どのように蔓延したか、の詳細まではネットでは出てこないと思うのです。日記ですね、日記。

 

本日何時、東京では何人の発表があり、各地の状況もこうでああで…

現状わかっている事はこうでああで…

感染を防ぐにはこれがよいと国が発表したが…云々

 

そうした「コロナ日記」なる物を、日ごろの日記帳とは別につけておくべきだと思い、そのように致しております。誰にとっても初めての事なので、出来る事を選ぶとしたら、先での人間が困らぬよう、そうして命を紡いでいければそれが一番にベストでしょう。

 

本書ではわかりやすいR0値の出し方、考え方、コロナウィルスがなぜ蔓延してしまったのか、感染症が蔓延した時、人はどう動きどう考えるのか、等が短い中にも誰にでも理解できるように描かれています。ぜひ、読んで!!

 

自分たちが出来る事を選んでいきましょう。どうぞ心まで籠りきりにならぬよう、皆様も感染症には充分にお気をつけて、明日へ。

 

お付き合い、ありがとうございました♡♡

 

 

📖誰かが見ている/宮西 真冬 (著)

久しぶりに『ギャー…怖い!無理w』な作品を読んだのでレビューしておきます。

f:id:tsubame71:20191111122148j:plain

誰かが見ている

第52回メフィスト賞受賞!
4人の女には、それぞれ表の顔と裏の顔がある。ブログで賞賛されたいがために、虚偽の「幸せな育児生活」を書くことが止められない千夏子。年下の夫とのセックスレスに悩む結子。職場のストレスで過食に走り、恋人との結婚だけに救いを求める保育士の春花。優しい夫と娘に恵まれ円満な家庭を築いているように見える柚季。
4人それぞれの視点で展開する心理サスペンス!
彼女たちの夫も、恋人もまた裏の顔を持っている。
もつれ、ねじれる感情の果てに待ち受ける衝撃!
「この先、いったいどうなるのか?」
ラストまで一気読み必至!! 

という内容。確かに一気読みした。文学と言うよりもドラマ色の強い作品で、あまり本は読まないが最近読書にはまりはじめました、な方には非常に読みやすい言の葉の運びで受け入れやすいと思います😊

 

イヤミスではない物の…人間の恐ろしさがよく出ているな、と感じました。いやぁ…怖い。結婚を仕事と捉えると、家庭は女性にとっての社会その物であり、夫婦間は夫家系という会社に就職したも同じ、24時間365日、あるとすれば降格のみで昇給も昇格もありゃしない、それなのに誰にも認められない褒められない…しかし子供が出来たら「わが社」の営業にも出向かねばならず、薦める商品にはそれそのものの意思があり……。

なんなんだこのブラック企業は!労基(裁判所)いったろかい!な気持ちもわかるw

 

私以前派遣のバイトで営業させられた経験があるのですが、あんな難しい仕事はないなと思いましたよ。動かない物を売っていても契約や購入に繋げられない、それなのにノルマはある、口ではノルマなし、とは言う物の…壁には氏名と契約/売り上げ件数が棒グラフで張り出され…ですね💦💦無言のプレッシャーやないか…でした。

 

それが!この家庭社会内の会社組織の製品は!意思を持ち、動くわけですよwそうじゃない、そのようにしてはいけない、という場面に限って悪い方悪い方に事が運ぶわけです。生真面目、クソ真面目な方には耐えられない業務かもしれない。。特に、それが自社ブランドとして判断をされる現場だと、その為にしっかりやってくれないと、と無駄に子供にそれを強いてしまう親御さんがいらっしゃるのも何となく理解できます。。自分だけじゃないですしね。姑もいればご主人という上司もいらっしゃる。広い大海のような社会と狭い枠での社会に潰されまいとする事もあるでしょう。

 

私の場合は相手が誰であろうと、これは私の意見ですが、とハッキリした性格でモノ申してしまうし『合わない会社なら辞めりゃいい』という軽いフットワークの信条でいる為、有難い事に、そうした社会に合わせようとは思っていない事も幸いして、自分が守るべきものは子供である、と絶対的こなすべき業務を理解した上で勤めているので、子の気持ちやあり方を最優先に考えられている、という育て方をしておりますwある程度いい加減だから出来る技だな、私、いい加減でよかったわ~とつくづく思うところ。

 

ダメですよー。それ、生きてますからね~。そこから80年近くはその親のやり方をベースにして生きていきますからね~。属するべきは社会か会社か、と尋ねられたら、そんな大きな存在を漠然と考えるよりもまずは目の前の仕事、と地道に励む事が得策です😊

何かから変えていく、を望むのであれば、まず自分の仕事に対する在り方を変えていかないと。

 

さて、作品の中では家庭に入った女たちのどろっどろの闇がところかしこにふんだんにちりばめられ、こんな風に考える人間の仕出かす事には全く頷けないし私には縁遠い感情ではあるものの…される側の気持ちはわかる。実際、過去に持っていたブログを見て訳のわからない嫉妬にまみれた方にいたずら電話をされまくり…みたいな事もあったし、この話の本筋を握る千夏子さんにもよく似た方を知っているので『あぁ…なるほどな…』と物語を総体的に眺め

 

"なぜ、そうなるのか"

 

を、理解した所存です。単に自己肯定感の低さの問題だろうと。

この感情は結構厄介者なのですよwどうせ私なんて…という感情は、あの人はとてもイキイキしているのに、と自分と他者との違いを比べて、初めて感じる感情なのかもしれません。そこから捻じれてしまう人は常に『私はあの人よりも苦労しているはずなのに』だとか『頑張っているのに!』という感慨に囚われてしまい、相手には何も苦悩がないような判断をしてしまう。あいつが目の前から消えてくれれば自分の人生は楽しいのに!とまで思ってしまう。えげつなく、恐ろしい。

 

こういう感情に出会ったとき「何目線なんだよw」「立ち位置どこだよw」と思ってしまうような"人は人、自分は自分"の考えで生きる私にとっては全く以て理解不能…しかし世の中にはそういう人の方が実は多いんだぞ!という事を女社会を通して知り、この話でも知りました。。

 

自己肯定感の低さって個人の内側の問題で他人は全く関係ないのに、なぜそこに他者を介在させて物事を考えるのだろう、というところがまず私にとって謎な部分です。誰かに何かを言われても、お互い様な時もあるし、それが図星な事だってあるし、受け取り手である自分の匙加減ひとつで幾らでも解消できてしまう。なのに誰かに認めて貰わないと、褒めて貰えないと、自己の確証を持てないなんて…となってしまう。これ、逆もあり得るわけですよ。考えた事あります?その逆とは、を。

 

例えばね、親になって一番に感じるところは、当然親なのでわが子のする事や姿、何でも可愛いですw可愛いですが、特に褒める部分、というところに目を向けると「優れているとは言えない部分が出来た時」に褒め比率があがるのですよ。いわばそれは裏を返すと『あなたには出来ないと思っていた事が出来た』という事でしょう?

※関係性が親子という遠慮のいらない間柄の場合です。全くの赤の他人に褒められる事は素直に喜ぶべき。

 

可愛いね、偉いね、立派だね。他人から言われる分にはいい気分だけど、親はある程度、本人が傷つかぬ範囲で「身の丈」という事も教えていかねばならない。これらを教える立場である親御さんが失敗なさると

 

私は可愛いと言われて当然なのに!大切にされて当然なのに!

 

となるわけです。言葉は悪いですが、だいたいそういう事を言い出し始めるのは、鏡みた事あんのか!な人、本当に立派だと言われる程にやり切ったような事がいままで何個あるよ?ねーだろ?甘えてんじゃねーよ!な人に多かったりもします。見た目はあれだけど気立てはいい子、それはそれは姫のような♡と親が思って褒めたたえた裏側を自分はずっと見て来ているのかもしれない!幻想か!?と何故それらを疑問にもって育たないのかが不思議な程…という場合もよくあります。

 

褒めの教育は良い子を育てる代わりに、現実から遠ざかろうとする側面も大きくある、という部分を念頭に入れて子育てをせねばなぁ…といつも思うところ。自己認識の甘さは自分の子に必ず影響します。人は環境で育つ部分も大きいので。自分の悪さを反面教師としてくれるだけの屈強な精神が子に備わっていれば、別ですが。

 

私自身は身の丈を理解しているつもりなので多くを望む事もないし、誰かに幸せにして貰えるという考えを持つタイプでもなく、自分が納得の行く状態が幸せだと思っているのでそれらはあまり自己肯定感には響きません。身の丈、と言われるとみみっちい感じに響きますが、身の丈を知っている、それは自信がないという事とはまた別物なので。

 

むしろ私なんぞはなんもできてねーなwはははwな「で?なに?」な部分が大きいために、誰かの幸せ、いーじゃんいーじゃん♡誰かが泣いてる…よくないぞー、誰も幸せにも楽しい気分にもしてくれないんだから何とかそっから抜け出す方向選ぼうね~

な感じだし、ある程度人も見ているので、あぁ…これは私がいるとダメになるな、だとか、私にはあなたをどうする事も出来ないわ!な時には、きちんとその旨を相手にお伝えして去るタイプにあり(赤字部分は非常に大切です。客観的にみてこう感じたのでこの関係は難しいのではないか、のような建議を一蹴してしまうと、相手の持つ捻じれている自己肯定感に『やっぱり私はこうだから…』とか『こんな私は面倒なんでしょうね』が積もり積もって一石投じる結果になるので。)

 

よって!この作品に出てくるようなえぐい人たちが周りにいない…が!あーなるほど、ふむふむなるほど、なるほどねー!って知らんやん!そんなんあんたの問題やん!となりました(作者の宮西さんはそういう部分を「ん?」と思い描かれたのではないか、と。=そうした感情の向きの女性が多いという事…いやだ、人間怖い!www)

 

しかしやっぱり子供の世話をするのが多くのご家庭ではいまだ女性の仕事となっている部分で、そりゃお母さんが面白くなければこんな子産むんじゃなかった!と思ってしまう事もあるだろうし、この厄介な生き物さえいなければ私も自由になれる!と思う事もあるでしょう。それはよく理解できる感情です。こうでなければいけない、の正解がないので、自分の意見が正解、となりやすいのも子育てですが、実は子供も他人です。あなた自身、私自身の感情は他人には全く関係ない、というのも確か。

 

体は密着していても、心はある程度の距離感を保ち、休み休み、やっていってほしいなぁ。子供が犠牲になってしまうのは、物語にしても、実際の事件にしても聞くにたえないし美しい物ではないです。このまんまじゃダメだなー、なんて思う時は、自分も人間であるという事と、自分がされたらどうかという原点に立ち返り(初歩も初歩だけどw)こう言われたいな、ああ言われたいな、と思うような言葉を沢山かけてあげるといいかな、と。誰かを癒す事で自分が癒される事も多々あります。私はこの人を幸せな気分にしてやっている、ではなく、この人だから私から良い言葉を引き出せる、という存在の有難さにも目を向けて。

 

しかし…女社会とはえげつない。震えた。恐い。私、男っぽくて本当によかったと思った話でした。出てくる人物ただ一人を除き、ろくでもない人しか出てこないww

ヒェッ…と背筋の凍った話でありました。個人的にメフィスト賞受賞作品、おススメです。面白ければよい、というあまり枠に捉われない賞なので、色んなタイプの話があるし、ついつい唸っちゃう。ドラマ色の濃いお話なのでサクサク黙々と読み終わりました。あぁ恐かった恐かった。

📖共喰い/田中慎弥(著)

随分と遅れてからの田中慎弥氏の『共喰い』を読む。

八月にようやくあの街を出て都内に引っ越したのだがそれまでの近隣は山・山・山。街に続く道は一本しかなく、当然の事ながらスーパーも商店の数も限られて書店の類は隣町まで出向かねばならぬし、そのくせに電車は単線、二時間に一本走ればよい方で。

 

図書館にはお世話になっていたとは言え、それもとても狭い範囲での選択しか許されず数々出版される本の並んだ本棚をゆっくり眺める事もなく…そんな八年間とやっと縁切りが出来た。田舎、と呼べるほど一般の人が考える田舎、とは桁違い。そもそもそんなところに家があるの?人が住めるの?な、田舎と呼ぶより"自然を借りて勝手に暮らす生物"と位置付けた方が早い、そのような場所だった。

 

その為に、この場所からそこに越すまでの暮らしとは180度の向きで変化してしまい、それまでが普通だと感じていた事は一切普通ではなくなった。色々を時間の中に落としてしまったように思う。本だって、映画だってそうだ。忙しい中をどう頑張ってみてもそれには限界があった。本当に欲しいものだけを選択し、ネットで検索をかける日々。関連書籍はすすめられても"たまたま目に付いたから"等という寄り道はなかなか出来ない、それがネットという世界。現実の、眺めていたら視界に入ったから興味を持つ、そのような事がない残念な暮らしだった。無駄がないと言えばそうだろうが、その暮らしには赦しがない。嫁いだ時に近所の方が仰った『近くには病院もあるし、ちょっと走ればスーパーもあるしわりかし住みやすいで』なんて言葉に、意味があったのだろうか。

 

現在の暮らしの近隣には少し歩けば書店も古本屋もある。目と鼻の先にはコーヒーショップも溢れ、時間が許せば傍の書店で書籍を選んで購入、そのままコーヒーショップで時間を潰す、あぁなんという幸せ。こんな普通の事を幸せだと呼ぶ事にこの街から離れ元に戻るまで約十年近くもかかってしまった。

 

書店の本棚の前に立ったら帯に芥川賞受賞作、とある。ああ…この話って菅田将暉主演で映画化されてなかったっけ、そう思いながら手にとってその足でコーヒーショップへ。それが世間一般の普通の時間を取り戻す、私の旅。そんなわけで少し遅れてのレビューです。

 

共喰い (集英社文庫)

一つ年上の幼馴染、千種と付き合う十七歳の遠馬は、父と父の女の琴子と暮らしていた。セックスのときに琴子を殴る父と自分は違うと自らに言い聞かせる遠馬だったが、やがて内から沸きあがる衝動に戸惑いつつも、次第にそれを抑えきれなくなって―。川辺の田舎町を舞台に起こる、逃げ場のない血と性の物語。大きな話題を呼んだ第146回芥川賞受賞作。文庫化にあたり瀬戸内寂聴氏との対談を収録。 

あぁ…なんという内容なのだろう。救いがないww

 

これだけの性描写が並べば嫌悪感さえ起こりそうなのに、それはとても"どうしようもなく本能の"に位置づけられ目が離せなくなってしまった。例えば同じ性描写でも官能小説などは二ページも読めばお腹いっぱい、その本にとどまる事が出来ない。私には出来ない。そんな事よりも私は性描写が描けない。リアルに描くとなると客観性が足りず、官能小説にあるようなファンタジー要素を感じた事がない、とでも言えばよいのか。性描写のある物はそれこそ食べ物の好き嫌いに似て、御意!と、あーなんとなくわかる、と、全くわからないから入り込めない、に分かれる部分があると思うのだがどうか?

 

私はどちらかというと自分で性描写を描くとなると田中さん的になりやすいであろうと思う。ただただ、その状態をお伝えする、そこに在る、というだけの。内容的にはえげつないのですが…でもこの作品が賞をとる、それは非常にわかる。てか、あげてwあげようよ、そんな気にさえなる。不思議と瑞々しい感覚だし。私どの目線でいま、物言ってる?ってなるけど、これは賞あげてwと思った。

 

きっと私は皆さんとは違う目線でこの物語を読み終えたと思う。自然というのは素晴らしい。素晴らしい代わりに、時が動いているようで、何も変わらないのだ。この話では田舎という場所の情景描写が9割を占めると思う。川の流れ方から、時間の潰し方、暮らしている人たち、いつもの顔ぶれ、停まっている鳥のその形や様子まで。これらを眺める時間がそこにはあり、しかしそれらを眺める時間しかないのだ。何もない。何もないくせに…その感情がとてもよく描かれている。

 

すごい!すごい作品だ!と思われがちだが、実は田舎にはあのような話はごまんと溢れかえっている。日本の闇の宝庫the田舎。もがく若者達とその苦悩。娯楽が欠けている、それはもう毎度口を酸っぱくして言うように、楽しみや出来る事が、人いじりかセックスに耽る、その程度しかないんである。或いは残酷に意味もなく虫を殺したり。それで神にでもなったような気分になる子とこれはよくない事だと時間をかけて理解していく子に分かれる部分が多い。近代化理論ってすごくね??人が人になってくんだよすげぇよな…そんな風にさえ感じる。自然しかないと人間は動物化したままで生物界のトップを走る事になってしまう。本能しかない輩が中途半端に知恵を手にした時、のような状態にある人間が非常に多い、それが田舎だ。(それに伴って事なかれ主義の隠ぺい体質という部分もあるので事が大きくならず、街や村の力ある大地主などによりそれらはなかった事となる)

 

その陰鬱さ。それらに対峙する感情やそれでも変化のない街の様子が非常によく描かれており、途中から、ダメだそんなところにいてはいけない、家を出なさい!と遠馬くんという主人公を励ましながらページ上の指を送る。田舎は多感期に対して残酷すぎる。過酷すぎる。大人になっても無理だ。無理だった。そこには様々なごまかしの気持ちが横たわり、こんなの嫌だよ、と騒いでみても現実は何も変わらないのだ、とわかった時に、騒ぎ立てる気持ちさえゆっくりフェイドアウトして行くような落胆や諦めとはまた違う「心の死」のようなものがある。そしてそれがその者の普通となっていく時、の苦さを握ったまま、語りかけてくる。私は腐っても母であるために『畜生、傍にいたら抱きしめてやるのにな…』とさえ思ってしまった。あまりに、過酷で。

 

私が一番この話を好んだ部分は情景描写の緻密さもさることながら、時間を流れとして捉えていないところだ。その場、瞬間、目をとらえた物、それらが束となり時間という物を作り上げている。それぞれのその時間に自身を落とし込み、ああではないか、こうではないか、こう見えている物も実際にはこうではなかろうか、等の問いかけがあの手法によって行間で語れる、という部分。最終的に若き命は自分の無力さを知る。人が無力を感じる時と絶望はイコールです。それ以上の絶望を私は、知らない。何が出来るか、何も出来ない、出来なかった、そこに突き付けられる痛みを絶望と呼ぶのだ、とある出来事から知りました。

 

主観と客観が一人の中に起こり、自分の感ずる道徳観念に負けそうになる時の、でもそうでしか状況が許さない、そこに置かれた時のどうしようもない気持ちが仁子さんが橋を渡るか渡らぬか、そこに投影されている気がした。

 

内容的には救いがなくえげつないので性描写かぁ…つれぇ…と思う人には厳しいかもしれないが、それはそのようにしてそこに在るものだった、と読めばきっと大丈夫wあぁ、これは賞あげよ…あげてwそんな風に思う作品でした。映画の方はエンディングが違うのか予告で、原作とは違うもうひとつの…となっていたのでそれはそれで楽しみ。だいぶ陰鬱だろうけど。でも私、きっと直視できる。なぜって、田舎とは、さよならしたから☺♡

タロウのバカ

本日、大森立嗣氏が監督・脚本をなさった『タロウのバカ』を観てまいりました。

f:id:tsubame71:20191105222104j:plain

まずはあらすじから。

タロウのバカ : 作品情報 - 映画.com

「さよなら渓谷」「日日是好日」の大森立嗣が監督・脚本を手がけ、刹那的に生きる3人の少年の過激な日常を描いた青春ドラマ。主人公タロウ役には、本作が俳優デビューとなるモデルのYOSHIを抜てきし、タロウと行動をともにするエージを菅田将暉、スギオを仲野太賀がそれぞれ演じる。戸籍も持たず、一度も学校に通ったことのない少年タロウには、エージとスギオという高校生の仲間がいる。エージとスギオはそれぞれ悩みを抱えていたが、タロウとつるんでいる時だけはなぜか心を解き放たれるのだった。空虚なほどだだっ広い町をあてどなく走り回り、その奔放な日々に自由を感じる3人だったが、偶然にも1丁の拳銃を手に入れたことから、それまで目を背けてきた過酷な現実に向き合うこととなる。

2019年製作/119分/R15+/日本
配給:東京テアトル

*:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:*

ところで皆さん"意味がわかると怖い話"って、知ってます?表面上だとサラリと過ぎて、でも、話の本質が見えた時「ヒェッ」てなるやつ。本作はそれに近い気がします。この話、もっと若くで観ていたら『で?』『は?結局何が言いたかったの?』となりそうな気が…。思った通り、そうしたレビューもチラホラ。私ですか?とても考えさせられました。まだ"メランコリック"も"岬の兄妹"のレビューさえも書いていない私が、こちらを先に書いておこうと思うほどw最初から最後まで観てる間中、ずっと考えてました。

 

軽くネタバレすると、この作品、とってもバイオレンス。アウトローというよりは、日本の闇。そこが考えさせられる部分なんですよ。。現在、日本では無戸籍の人口が1万人を超えていると言われます。戸籍がないという事は実際、何も出来ないわけです。存在自体を問われる、という事です。誕生日もなければ、名前もふんわりした物でニックネーム程度、学校には行けない、病院にもかかれない、車の免許に引っ越しに、結婚だって就職だってなんにもなんにも出来ないのです😢

 

その、存在を問う、存在そのもの(生と死)に若さとが相成って、生への衝動と同じだけ抱える死への憧憬の念、大人になる過程で感じる焦燥感…等々が絡み、全体的に若いころに誰もが一度は感じる日常の空虚感を訴える作品となっているのですが…戸籍が!ないわけですからね。生きようが死のうが物理的には何も残らないわけですよ。。戸籍が、ないですから…。じゃあ、人の存在とはなんだ、書類上の問題なのか!?となる二律背反。これはまた難しいところにぶっこんで来るやん……w

 

私は早くに親の存在を失っているので、その生き辛さってよくわかるのです。今の時代はようやく色々な整備も整って便利な時代となっていますが、戸籍があったとて、それでも背景がないとなると生きる事にはかなりの困難がありました。例えば部屋を借りる時、保証人が必要で…だとか。ちょっと優しい知り合いのおじさんにそれを求めようものなら見返りに体を要求される…生きるのも嫌になる。それさえ困ったりするのに、もっと、その更に倍、生きてるのか死んでるのか解らないような毎日を環境として与えられる、それって永遠に地獄だろう…と思ったり。

 

小さなニュアンスの違いですが、すき好んで選んだ事で選択の余地が少しでもあった場合での苦しみに対しては『可哀想』という表現で片づけますが、この場合は望んだわけでもなく気づいたらそうだった、こうした場合に感じた感情は『気の毒』と表現するようにしていますが、まさに気の毒で痛々しいの一言に尽きました。

*:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:*

さて、帰りに主人とこの映画について話していた軽い会話を抜粋。

 

『若さって怖いし、厄介だなw』

「でもそれってお互いに歳とったって事だろうねw」

『あーでもあれか。忘れてるだけで、若いころってあんなもんかw』

「なんならあれ以上に悪かったかもしれないw結構平気で恐ろしい事考えたり想像したりしてたもんねw人なんか簡単に殺せると思ってたしさw」

『それを考えると何がすげぇって監督がすげぇよな。その頃の感情だとかはもう覚えてもないし、客観的にみても、バカだよなーって思う事をそのまんまリアルに伝えられるんだからwもうあんなパワーがない。我々老いるとそれこそ、生きてるか死んでるかも考えないし、とりあえず今死んだら仕事だの家族だのが路頭だろー…とりあえず死なないようにしないとなって思うくらいでw生きてるー!って思う瞬間にも鈍くなるw』

「そりゃもう寒くなってきたし、冷えるしホットにしよ♡とかいう歳だからねw」

『でも、振り返って楽しめるってのはいいよな。大人の醍醐味ってこういう事かもしらん。若いころに見てたら「んで何が言いたいねんっ」言うとったわ。結構若さってそんなもんやで?って冷静に思うもんなぁw』

「だねー。あれさ、映画の中で「好きって何?」って言葉がキーワードになってたけど、大人になって眺めると「世間の言う普通って何?」って方が先に立ったw」

『一般的な決められた価値やろ?どれもこれも間違っとらんし、正しいも間違いもないなぁ。これが正しいならみな正しいし、これが間違いならみな間違いっていう見方が一番正しい気もするわw』

「あーわかるわかる。そういうとこ描いた作品だった。って珈琲さめるw」

 

鑑賞後、そんな会話で盛り上がりました。

 

※後で調べてみたら、監督が若いころにお書きになった作品だそうで!

そりゃそうか。。大人になってもその感覚がバリバリに残ってしまっていたら、普通の生活歩むの大変!になっちゃうかw

*:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:*

この作品、もうひとつ大切な部分があるのです。それは「教育」です。

 

私はあまり勉強というものを過剰に問題視する人間ではないものの、物事の基礎だけはとても大切だと常日頃感じています。例えば数学というのは正しい答えが出る仕組みですが、答えよりも大切なのは計算式の立て方であり、どのように見えない部分を正解に導いていくか、という思考上の組み立てが出来ないと正解を引き当てる事が出来ません。これは生きる上でとても重要です。なぜそうなるのか、が理解出来ない以前に、なぜそうなるかの考え方を知らない・出来ない、となると、必ず生きる上でも不正解を引き当てるから。少しでも教育という物が備わっていれば、失敗から成功を掴むことも可能ですが…全くの『無』であった場合、自分で自分を守れない。それが失敗なのか、間違いなのかどうかも判らなければ、当たり前に正解は『その状況が全ての答』となるので、勉強が出来るか出来ないか、そんな事は横に置いても、集団性というのもある程度は必要で(他者がいないと学べない事もある)学校で学べる事が許される子であれば、おばちゃん悪い事は言わない!最低限の基礎だけでも学んでおいて損はないよ!嫌なら保健室で過ごしてもいいから!と思うのです。心が綺麗、純粋、何も持たない、それって素晴らしい事だけれど、後に放り込まれる場所は社会という名の集団性。なかなか世知辛い場所なのですよ。もう本当に最低限でもしておいて損はない!!そう思いますw

*:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:*

さて、この見方から行くと、最終的に勝つのは知性か本能か、となるんですが

他者との共存を求められる社会で必要なのは知性と理性

個人戦で強く生き抜くには本能が勝る

と思ったのが、最終的な感想です。このどっちも両立できる物をどちらも必要ない!そんな事なら僕は大人になりたくない、と言ってしまえるのが、若さ、という事で。

 

一番に必要なのは「これをこうしたらどうなるか」という思考上での構築と、人の命も自分の命も同等で、命自体は与えられた物でもあるので好きに死期を選ぶのはご法度、死ぬも生きるも個人の自由だとしてもそれは大変罪深く、生きるのは自分でも生まれる選択は出来ず、生きているからこそ苦しみも喜びも感じられるため…例えその時が辛くとも!過ぎてみれば何てことなかったなーと思えたり、そんな事を考えて悩んだ自分を恥じてみたり…と感覚の鈍る大人に嫌でもなれる!老いればそんなパワーなくなるwそうなったら占めたものだ、ととりあえず間近に目標を持って生きる事を若き悩めるウェルテルみたいな子たちにはそれをおススメ!w

 

命を与える側も人の一生には大変な責任があるので戸籍くらいは取得してあげなければ虐待も虐待の最上級、そんな思いはさせてやるな、という事かな。

 

以上、本日みた『タロウのバカ』でした。長々と。

(他にもいっぱい溜めてんだけど、待ってくれ…忙しくて死にそうなんだ…)

📖【読了】ボダ子/赤松利市📖

Wow(*‘∀‘)blog開くの久しぶり!

ド田舎暮らしの為、現在近くに映画館も本屋もなく…。

新作や新刊には無縁気味な生活ですが、この度!私が2018年の年間読書で推しに推していた赤松利市先生の"藻屑蟹"が徳間書店さんから書籍化

そしたらあなた、新しいのがいつの間にか出ていたわ( ;∀;)

というわけで、本日はその新刊『ボダ子/赤松利市(著)』について。

 

内容紹介

私は、“あの町"で娘を見殺しにした。
63歳、住所不定の新人。「100%実話」に基づく、正真正銘の問題作。

バブルのあぶく銭を掴み、順風満帆に過ごしてきたはずだった。
大西浩平の人生の歯車が狂い始めたのは、娘が中学校に入学して間もなくのこと。
愛する我が子は境界性人格障害と診断された……。 
震災を機に、ビジネスは破綻。東北で土木作業員へと転じる。
極寒の中での過酷な労働環境、同僚の苛烈ないじめ、迫り来る貧困。
チキショウ、金だ! 金だ! 絶対正義の金を握るしかない! 
再起を賭し、ある事業の実現へ奔走する浩平。

しかし、待ち受けていたのは逃れ難き運命の悪意だった。

未体験の読後感へと突き動かす、私小説の極北。

 

読了後、色んな方の評価や出版社書評等を拝見させて頂いたのですが、私自身の意見は皆さんと正反対でして参考になるのやらどうなのやら…(;'∀')

 

面白い・面白くない・誰が善い悪い…そんな事一切関係ないカテゴリー、それが私小説だと思うんです。人の生き様に気軽に手軽に口出しできる、考える程人生はそう甘くもなく、これを最低だ、最悪だ、と思う方はきっと幸せに生きてこられた方達でそれを噛み締めてこの先も歩まれた方が良いと思える、そうした作品でした。

 

ラストは泣いてしまった…。え、で、どうなったの、現在は?という印象を残したまま、届きそうな手が届かず、事態を拒んでも祈っても届かない時がある。

とても苦いラストでした。

 

物語は・赤松氏自身が娘さんを授かるまでの生き方・生業とする仕事・娘さんの事

この三つで進みます。

 

ここでこれから読まれる方の為に解説を。

この物語のキーワード。ゼネコンです。

ゼネコンというのは簡単に言うと何なのか。

→建設業界における総合建設会社の事で、例えばこれをオーケストラに置き換えると

演奏曲(ビルや橋や大きな公共建造物)

ゼネコン→指揮者 楽団の各楽器担当パート→それぞれを得意とする各工務店

と割り振られます。

 

昭和生まれの爺や婆には結構身近なこの言葉、今はどちらかというとクリーンでピュアというイメージがある為にそこを読み込む事が困難になってしまうとこの物語の伝えたい部分への印象がぼやけます。

私たち世代には、言い方悪いですが…あまり良い印象がない…wやってる事がエグイ!という印象のままだったので"郷にいては郷に従え"です。仕方ない。

言いたい事解ります?

公共事業や国絡みで巨額の金が出る、となると…間に入る人間が増えれば増える程、末端には正しくその分配がいかなくて当然…なんて事も起きるわけですね(汗)

 

そこがよく理解できていなければ、この人酷い、この人何やってんの、めっちゃ人絡んできたし解かり辛いわ!となってしまうかもしれなひ(;'∀')

 

■考えさせられるに違いない作品■

もし自分が自身の私小説を発表するとなったらどうでしょうか。

きっと自分の事はよくみられたいが為、ここまで人間の持つ弱さをさらけ出す事が出来るのかどうか。その意味で非常に考えさせられました。人の根底には常に弱さという物がつきまとい、それを払拭するが如く日々様々な物で彩ろうとする。それが夢であったり、仕事であったり、はたまた、肩書(ステータス)やお金の人もいる。

 

これをお書きになった赤松氏はその過ぎ去った日々を紙の上で懺悔なさっている、というように感じました。何かを得ようとすると何かが欠落し、うまくバランスの取れない中でも捨てられない愛情や義理もあり…何かを成し遂げる事に必死だった、でもうまくいかなかった、というような過ぎた日々への懺悔。

 

当然、許せなかった事も多々お有りだったでしょうね。ただその中に、一番に許せぬはあの時の自分自身と全体で語っておられるようで自業自得と呼ぶよりは、生き方の不器用さがところかしこにある、と思える物語でありました。

 

建設業に携わった事のある方、頑張っていてもどうしてもいつも悪い方向にその結果が出てしまう方、人生の厳しさを感じた事のある方には是非おススメ!

 

境界性人格障害をお持ちの娘さんが出てくるので、その方面でご興味のある方には申し訳ないですがおススメは出来ないかも。精神医学の専門書ではない事が大きな理由であり、話の要は娘さんではなく赤松氏の歩みの傍に娘さんがいらした、という形となるので行動の把握としてはアリ、ですが、娘さんの行動の観察日記ではないので、お目当てからは大きく外れてしまうかも💦

 

理性的に生き、道徳的に生きるとは、環境により難しい事もある。

時の流れへの懺悔を感じる、そんな一作で御座いました。ん~!苦い!苦虫🐞

📖リチャードさんの二冊。(Richard Lloyd Parry)📖

皆さまあけましておめでとうございます。

今年も何卒よろしくお願い申し上げます。

 

新春一発目の記事をどうしようかと考えましたが…

本日は私の大好きな方の著書二作をご紹介したいと思います。

 

二冊あるのでこちらからリンクにて引っ張りたいと思います。

 

一冊目。

 

 黒い迷宮:ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実。

tsubame71sentiment.hatenadiary.jp

 

二冊目。

 津波の霊たち--3・11 死と生の物語。

tsubame71sentiment.hatenadiary.jp

 

二冊ともルポとなりますが、読ませる・考えさせる・日本人では描けなかったであろう日本文化とその組織と入り組んだ構造に、日本人である私たちが「なるほど」「本国の事であるのに気づかない事がたくさんあるな」と思わせてくれる内容となっています。

 

それではそれぞれの記事をリンクからどうぞ。

私の電子書籍活用術

27日に忘年会をしたはずなのにそこから缶詰状態です、こんばんわ。

年が越せる気が全然しない。うん、もう、多分無理w

 

twitterを眺めておりますと、今年観たベスト10、今年読んだベスト10等を

皆さん上げていらっしゃって、几帳面にちゃんと記しておいでなのだなぁと

感心しきりです。私みたいな適当な奴は何やらせてもダメですね、へへへ。

 

ところで、年末と言えば大掃除なのですが、私の場合、一番涙がでるのが

本の整理です。電子にしてから随分と楽にはなりましたが、電子版になっていない

作品は結局買うしかなく、そうなってくるともう手のつけようがありません。

f:id:tsubame71:20181231003718j:plain

左がAmazonのkin太郎、右が楽天kobo太郎。

 

いつでも手に入る、家で邪魔にならない、沢山持ち歩けるので外で便利

等のメリットがあるのですが、古本屋で購入出来る価格とはいかないので

結構な値が張る!

 

しかしながら子育て中となるとゆっくり本屋を覗く事も制限されるので

とても助かるのです。

 

そこで『私の電子書籍活用術』

 

■ポツポツ読みにはkin太郎 ■新書で読むならkobo太郎

 

私はAmazonの kindle unlimitedユーザーなんですが(月額制読み放題会員)

(※プライム会員の方は Prime Readingという読み放題も活用できます❤)

 

読み放題以外で読みたい物もある!

そういう時は確実に課金へ持ち込まれるので、その場合は楽天kobo

利用する事が多いです。楽天はクーポンの配布が多い事が魅力💓

 

外での店舗利用時に楽天ポイントが貯められるので

(私の場合は主にマクドナルド・ミスドくら寿司・給油で貯めてます)

新書等で値の張る商品の場合、クーポン適用価格+ポイント精算で

お安く、それ以外はAmazonのkin太郎の読み放題からポツポツと…

 

と言った使い方が多いです。

 

読みたかった地面師ですが…

 

 なんとkindle版、只今、1404円!

高いのです。最近の書籍って、2000円は見ておかないと本当に高い。

 

しかし…

楽天のクーポン配布と普段の生活で貯めておいたポイントで

無料でゲット致しました💓(以下、スクショ)

f:id:tsubame71:20181231010449j:plain

 クーポン適用価格、843円💓

この843円をすべてポイントで!

 

amazonカードをお持ちの方や、翌日配送の日用品や食品なんかを

利用なさってる方はamazonポイント貯まるしいいなぁ~大人か!

と、私のような小者は指を咥えておりますwww

 

お小遣い少ない私は、本は安い時に買う。これに限ります。

古本になるまで待てない、そもそも古本屋行く時間がない、そんな自由ない

子育て中ってそんなものです。

 

というわけで、上手に管理しながら読書を楽しむ裏技でした☻☺

 

今年も暮れていきますね。

仕事が納まりませんが、頑張りたいと思います。

皆さま良い年越しを。

来年も引き続き、宜しくお願い致します。